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コラム

環境部発足:第1回対談 グリーンフューチャーズ代表 吉田敬史氏(1/7)藤原仁志の「対談:攻める!環境部」

「攻める、環境部」第一回は、三菱電機の環境部を立ち上げ、同社を環境先進企業に押し上げた貢献者のお一人でもあり、また、日本でのISO14001の普及に尽力をされたグリーンフューチャーズ代表の吉田敬史氏との対談からスタートします。吉田氏とは、筆者が環境事業を立ち上げたときからのお付き合いで、当時から大所高所からの助言を常にしてくださった方。お話は、ご縁が始まる前から環境分野を、企業経営において重要な位置づけに押し上げていくまでの苦労話から始まります。

立ち上げ当初に様々な本を読んだ

藤原: 本日は、よろしくお願いします。吉田さんは、環境分野にかかわるようになってからかなりになると思いますが、おはじめになったのは確か92年ぐらいですね?

吉田: そうですね。

藤原: ちょうど「限界を超えて」(ドネラ・H・メドウス、デニス・L・メドウス、ヨルゲン・ランダース:和訳本はダイヤモンド社)が出た年だと思うんです。15年くらい前にこれが出ていますが、そのころから結構こういった本が出始めて、ちょうど大手商社やトヨタさんなんかで地球環境室というのが立ち上げられ、三菱電機さんも先鋭的にこれから地球環境の時代だということで、同様に立ち上げられたのかなと思っています。ただ、そのころは、今で言うCSR部門の前進みたいなかたちだったのかなと思うんですよ。そういう時期に吉田さんはたまたまご年齢も、事業の中枢をささえるべきというような時期だったということもあるでしょうし。そのあたりからお話を伺えたらと思います。

第1回対談 グリーンフューチャーズ代表 吉田敬史氏(1/7)

吉田: わかりました、よろしくお願いします。92年といえば確かに「限界を超えて」は懐かしいですよね。おっしゃったとおり、あのころまでは実は環境というものは企業ではそれほどやっていたわけではないんです。当時はそろそろ環境部門ができるという話があって、昔の上長から部門立ち上げが実現しそうだっていうことが91年の10月ぐらいにありました。91年12月16日付けで部門が設立されて、その日に本社に移ってきたわけです。それまで私は神戸の事業所で、電力会社向けの開発をやっていました。

後に、この本も読みましたけど、とにかく異動前の10月から12月の間は、もう徹底的に「環境って何だろう」と思って調べまくりましたね。今だったらネットで検索してってことになるんだろうけどけど、当時はまだインターネットがない時代ですから、本屋さんとか図書館で調べてみても、あまり日本人の書いた環境関連のいいものってなかったんです。全部こういう海外のものを翻訳してあるか、もしくは原書そのものだったんですよね。20冊ぐらい読んだかな。

「環境と開発に関する世界委員会(WCED)」つまりブルントラント委員会が87年に出した「われら共通の未来」とか、あとは原書で「ネクストワンハンドレッドイヤー」など海外の人が書いたようなやつとか。そういうものを2カ月間に多分、20冊ぐらい読んだと思います。どれもこれも目新しくて、すごく幅広いし、面白い世界だなという感じで。そうこうしているうちに年末がきて、組織が立ち上がったのが92年の年明けからなんですけど、まったくの寄せ集め部隊でね。

「限界を超えて」を読んだときの感想なんですが、システムダイナミックとか、環境変数を変えて資源の減少とか汚染の進行とかのシミュレーションが書いてあるでしょう。これはすごいなと思ってね。わたしも一応システム屋の端くれだったから、こういうコンピューターのシミュレーションをやっていたから、汚染と資源の相関モデルなんかをつくれば、いくらでもこんな絵ができるというのは理解できるけど、実際にこのモデルをつくって可視化したっていうのはすごいことだと感じましたね。

藤原: 相関関係を見事にね。

吉田: よくここまでやったなと感じると同時に、自分がやってきたシステム屋さんっていうのも、環境でも役に立つのかもしれないなと感じたりもしたんですよ。そういう意味でこの本は特に興味を持ったんですね。何回か読み返しましたね。

ノウハウなんて何もなかった〜立ち上げ当初の環境部

藤原: 異動は、吉田さんのご希望だったんですか。

吉田: はい。今は体制がかわっているのでもうありませんが、当時技術管理部というのがありまして、ここが環境部門を新設する計画を取りまとめていました。その部長さんが昔の上司で声をかけてくれました。当時は本社の生産技術部という部門で公害対策をやっていた人がいたんです。驚くのは、これだけの組織でも担当者が本社に一人しかいなくて。公害時代から80年代までの間、全工場を本社で管理する公害担当というのは、課長レベルの人なんだけど、1人だったんです。

第1回対談 グリーンフューチャーズ代表 吉田敬史氏(1/7)

藤原: 工場にはそれぞれいらっしゃったんですね?

吉田: もちろん工場現場にはそれぞれ担当がいました。だから、完全に分担管理で、それを統括する機能はほとんどなかったんですね。公害とか、廃棄物というのは大体、届け出がみんな地方だし、運用面では中央官庁との関わりはあまりないでしょう。業界活動って言っても、80年代まではほとんどなかったので、1人でやっていられたんですね。あとのメンバーはいろんな規律法令担当とか、技術企画をやっていた本社の技術管理部門の者が2、3人と、生産技術に関係があった方と...。もう全く、いろんな部門からの人です。中心的なメンバーは、主に材料をやっていた研究所の人でしたね。材料研究所というのが尼崎にあったんですけど、要するに材料屋さんですね。化学とか、金属とか、そういう学科出た人たちが配属される部署でして。

そういった部署出身の人たちがまずは集まって、最初の仕事は何が一番メインだったかというと、三菱電機におけるフロンの全廃だったんですね。当時フロン問題がいわれはじめたとき、結局従来の公害防止を目的とした体制のまま、本社の生産技術管理のK氏1人でやっていくのは無理だと。何で無理かというと、これは現場だけの話ではなくて、フロン全廃というのは、90年ごろでいえば、例えば、エアコンとか冷蔵庫などの製品の中にもフロンを使っていましたし、工場で洗浄、油を洗ったりと、今のクリーニング屋さんのように、それをほとんどの洗浄工程で使っていました。だから、多くの現場や技術者が関わらないと、全廃なんて無理なんですよ。

実は当時は、洗浄技術なんていうのも体系的なノウハウが確立してなくて、勘と経験でやっていたんです。あまり体系だったりする世界じゃなくて。洗うものとか、汚れとかによって、アルカリ系であるとか、水で済むものもあれば、有機溶剤も使うし。有機溶剤でもいろんな種類があって、どれがいいかっていうのは全く現場にしかわからないから、技術として全社的な理論体系があるわけじゃないんです。そんなものを一元的に撤廃して解決しようといったって無理があるわけです。

当時はまだ特定フロン(CFC)が、2000年に全廃になるかどうかっていう話が出たばかりだったんです。ところが結果的には、どんどん全廃期限が前倒しになって95年に全廃ということになって、5年早まったわけです。多分、これからは温暖化対策もあんなふうにどんどん前倒しになるのだろうなと言っているんですけど。段々、ひどくなってくると、もっと早めなきゃみたいな話ですね。

話はもとにもどりますが、そういう材料屋さんという、化学とか金属とか、そういうことをやっている人が3人ぐらい研究所から環境部門に来たと思います。あとは、総務部の人とか、兼務で入った人もそのころからいたんですね。人員数は部長を含めて、プロパー10人ぐらいだったと思います。

■次回「第1回対談 グリーンフューチャーズ代表 吉田敬史氏(2/7)」へ続く

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