公害対策部門から環境部へ!:第1回対談 グリーンフューチャーズ代表 吉田敬史氏(4/7) | 企業のサステナビリティ経営・自治体の町づくりに役立つ情報が満載

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コラム

公害対策部門から環境部へ!:第1回対談 グリーンフューチャーズ代表 吉田敬史氏(4/7)藤原仁志の「対談:攻める!環境部」

前回までの話はこちら 「第1回対談 グリーンフューチャーズ代表 吉田 敬史氏(3/7)」

「環境マネジメントシステムの世界へ」

藤原: そういう状況の中で、環境監査から始まって、段々そこからISOの精神とかそういうものに触れ始めて、TC207 の日本代表でEMSに関与されるに至る経緯について伺えますか?

吉田: その辺になってくると、今度は会社というよりも、業界活動の話になってきます。実は、三菱電機本社に環境部門ができたとき、ほぼ同時期に日立さんも東芝さんも、松下さんもバーッと一緒に環境部門ができました。電機工業会というのが、われわれの母体なんですが、そこに私が参加する前はKさんが出ていく環境保全委員会っていうのが電機工業会の企画部というところの中にあって、公害と廃棄物などについての情報交換の唯一の場でした。業界にも当時、環境部門というものはなかったんです。

藤原: 公害対策部門ですね。

吉田:Kさんは、月一ぐらいで各社が集まってやっている中での三菱の出席者です。私がデビューしたのは、K さんに連れられて、その集まりを一緒に傍聴するという。そこで初めてほかのメーカーの方たちとお知り合いになったと。

第1回対談 グリーンフューチャーズ代表 吉田敬史氏(4/7)

藤原: Kさんと同じような方がおられたわけですよね。

競争でなく協創の世界

吉田: サンヨーです、シャープです、東芝ですと。環境部にくるまでは、電力系の開発をやっていたから、日立さんや東芝さんのエンジニアとよく電力会社の発注を掛けて競争してきましたけど、同業他社の同じ種類の業務に携わっている人たちと、こんな風にわあわあとやりとりしているのは考えられなかったんですね。ところが、その委員会に行ってみたら、10メーカーくらいの人たちが、何かみんなが同じ仲間のようにわあわあというような感じで、ざっくばらんに情報交換をして、これがまたカルチャーショックだったんですよ。

藤原: そうですね。環境分野というのは、業界内はもちろん業界を超えて情報交換がすすんでいる分野だと思いますね。

吉田: ほかでは競争していても、ここでは一緒にやろうよというような。談合とか、カルテルの心配がない。今までがなかったから。

藤原: そういうこともありますね、確かに。

吉田: これからはあるかもしれないけど。

藤原: 環境ビジネスが活発に展開していっていますから、あるのかもしれませんけど。

吉田: とにかくそれがまた新鮮でした。東芝の人たちと話が自由にできるっていうのが。同じようなことをやっているんだなと、本当に会社の外に、広がるということを実感しました。92年の夏に、リオの地球サミットがあったでしょう。そのときに、エコブラジルっていう環境技術の展示会があったんです。サミットはリオだったんだけど、それはサンパウロで開催されたんです。それに日本は電機工業会として、電機メーカー7社で一緒になって出展することになって。各社からその事務局として1人ずつ召集されるようになったんです。

それは現地で2週間ぐらいの滞在だったんですけど、私の環境業務での海外出張デビューはこのときなんですね。まだ業界デビューして数か月ぐらいたったばっかりのころだったけど、その2週間日立や東芝やサンヨーの人と、ブラジルのサンパウロでいろんなところへ行ったりしました。そこで、業界活動みたいなものに触れて、それのいいところ悪いところも含めて、大変目が開かれたんです。

その出張から帰ってくると、そのときまで環境といえば公害ぐらいしか扱っていなかったのが、環境ISOに関して経団連でも検討が始まると。ついては電機工業会も、ちゃんと体制をつくって、検討しなければいけないということで、環境監査検討委員会っていうのが公害とは別に設立されました。

当時はまだ環境マネジメントシステムとか、環境管理という言葉はあまり注目されていないので、環境監査にみんな、目が行っていたんです。 ヨーロッパにEMASという法律があって、これは環境報告書を出して、第三者検証を受けるという仕組みなんですけど、日本に伝わったときは、EMASは環境監査が義務化されるというかたちで伝わったんです。

それがあったので、環境管理検討委員会ではなくて環境監査検討委員会というものが日本工業会でできて。ISOの情報などがまだ乏しかったですけど、ぽつぽつ入ってくる動きについて、どうすればいいかというような話を92年の秋ぐらいにしていました。

藤原: 92年の秋にもうやっていたんですね。

吉田:93年の6月が発足で、その前の秋ですよね。経団連でも、当時はEMSとか環境マネジメントとか、環境管理システムじゃなくて、環境監査検討グループというのがありました。また、環境安全委員会の下に、地球環境部会というのがありましたが、その下に環境監査ワーキングを経団連がつくったんです。それがわたしの支援母体になるんです。

「認証制度って、なんだ?」

藤原: EMASは、法律で罰則があると思いますけど、自主的に参加しても罰則があるというのは、本当にわかりにくかったでしょうね。環境関連のことは、やっぱりできるだけ隠したいのが普通だろうというような感じがあった。

吉田: そうですね。それと、ISOだけだったら、あんな変な反応にならなかったと思うんですけど、ヨーロッパのEMASはEUのレギュレーションでしたから、任意参加の法律って今でも自主的な考え方を取り入れたものってあるけども当時は、法律って言えば規制であって、経団連の公害対策の延長で物事をとらえていた人たちはEMASは規制で、環境監査が義務付けられるというふうにとらえたんですね。環境管理システムとか、マネジメントの自主的な認証なんていうことは、なんのことかわからない。

当時ISO9000 はすでにあったから9000をやっていた人は、もしかしたら環境ISOのことを聞いたら、それは、認証の仕組みで自主的なものでしょうと回答したかもしれないけども。全然、品質とは接点がなかった。だから、それは電機もそうだけど、どこの業界でもみんなそうです。第三者認証とは何か、自主的なEMSとは何かということが、ちゃんと分るようになったのは、94年か95年になってからですね。

92年のころは、電機業界も経団連も、日本の業界では当時はほとんど分らなかったんです。認証とは何ぞやと。それは環境監査を義務付けてやろうという動きだ、という単純な理解に、みんな行っちゃったんです。だから、みんな電機工業会も経団連も環境監査検討委員会とか、環境監査にしてしまったんです。日本の環境マネジメントは、そこからスタートしているんですね。

でも、ずっとそれで92年の秋ぐらいから、とにかくそういうものが始まって、93年の6月に海外で大会があるよというので、行くことになるんです。経団連のワーキングに鉄連(日本鉄鋼連盟)とか、電事連( 電気事業連合会)とか、日化協(日本化学工業協会)とか、業界代表が集まって、経団連に電機工業会の環境監査委員会の代表として、委員長だった当時日立にいたFさんとわたしとが、ペアでデビューしたんです。

対応を議論している中で、電機の場合は、反対、反対ではなくて、ちゃんと学んで、先取りしなきゃねというような前向きの議論が多かったので、経団連の中でどちらかというと、電機が議論を引っ張るようなかたちになりました。Fさんの強烈なキャラクターもあったんですけど。

藤原: そうですね。

吉田: 随分切迫したこともあったけど、電機がかなり目立って、いつの間にか、主導権を取るようなかたちに。それから半年たったときに、ISOの総会がトロントであって、そこに経団連の代表として、20人ぐらいが行ったと思うんだけど、そこにわたしも参加したんです。しかし、派遣団はあれども当時は誰が何の役割で、誰が代表かも、みんな訳が分らない。団体で行って、会場に座っても、議事のプロセスが分らない。議長がいて、議事録つくる人がいて、名前を呼んでなど、そういう議事の進め方も全く分らない。

要するに何が何だか分らないままで、総会が終わっちゃったんですよ。帰ってきてあれはなんだったんだろうって、やっぱり分らないから、結局そのあと経団連が改めて、カナダの総会監事をわざわざお金を出して呼んで、経団連で講演してもらって、細かくこれはどうなっているんだというような質問の機会を、あとから開いたんですね。それでやっと理解できたと。

藤原: 行ったあとに、これはまずいんじゃないかと。

■次回「第1回対談 グリーンフューチャーズ代表 吉田敬史氏(5/7)」へ続く

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